玩物喪志の記
好文居主人
魯迅用箋と『北京牋譜』
第3回 墨と紙
その3 詩箋という文化
詩箋を知ったのは昭和53年2月、一般開放された敦煌を見学するため中国を訪問し、その帰途、まだ再開発中でごった返していた北京瑠璃廠の栄宝斎に行ったときであった。いわゆる便箋であるが、文字を書くのに邪魔にならないような位置と濃さで、木版のいろいろな図柄が、単色、あるいは多色で淡く刷り込まれていた。これを使って手紙を書いてみようとそのとき思った。
以来中国に出かけるたびに上海、西安などで目新しい図柄の詩箋を購入した。また戦前作られて流布していたものをお持ちの方から頂戴し、趣の違う図柄を楽しむこともできた。詩箋購入をきっかけに、私信は筆でと決めている。
定義的に言うと、詩箋とは詩題を詠むのに使用された幅の小さい便箋(信箋)のようなものである。箋紙に色刷りの版画(彩印)を施したものを彩箋、花箋などと呼ぶ。台北故宮の蔵品説明によると、中国の彩色木版画が発展したのは、明代の崇禎年間末(1643~1644年)の頃に彩色木版画の基礎が打ち立てられてから。清代(1644~1911年)末期になって彩箋が流行するようになったとある。
江戸初期、黄檗宗の僧隠元らが中国から来日した。彼らがもたらしたものは宗教面ばかりでなく、文化面、美術面また食生活面などを挙げることができる。黄檗僧が尺牘に使用する書箋に多色刷りの木版画が添えられていた。草花図、花籠図、文具棚図、花鳥図などの図柄であった。さらに中野三敏は『江戸評判記』(中公新書)「詩歌趣味大名、鍋島直(なお)条(えだ)」の項で以下のように書く。
《特に驚いたのは、当時舶来の中国詩箋をふんだんに使っていることだ。詩箋は文人が詩を書いて贈るための用に作られた便箋で適当に山水や花鳥、人物などの下絵が文字を書くとき邪魔にならない程度の淡彩で刷り込まれているもの。中国で色刷りの美麗な詩箋ができたのはほぼ明末天啓(1620年代)ころと思われる。(中略)日本ではこのあと百年以上たたなければ浮世絵版画に代表されるような、こうした色刷りの技術は育たない。》
黄檗僧のものは京都・宇治の万福寺、鍋島直条のものは佐賀県立図書館の鍋島文庫に所蔵されている。これらの詩箋について最近の研究では、日本の浮世絵錦絵登場に多大な影響を与えているということである。
吉川英治記念館に在籍中、上海魯迅記念館と交流を持つようになってから、魯迅が専用の魯迅用箋なるものを作っていたことも知った。魯迅用箋は小型(23.5×13センチ)で、金魚や梅などが刷り込まれたものだった。さらに魯迅といえば、古くからの詩箋の優品を選択して図録を作っている。『北京牋譜(せんぷ)』と呼ばれるものである。
魯迅は鄭振鐸を誘って、清末民初の約50年間の栄宝斎などの文房具店の版木5000くらいから、彩箋佳作400数十点を選択し、民国23年(1934年)に『北平牋譜』として刊行した。当時北京は「北平」と呼ばれていたのである。のち栄宝斎は、このとき使用した技術を活用し、民国44年(1955年)に『北京牋譜』として複写本に作った。私の持つ『北京牋譜』も、昭和53年に上記の詩箋と共に栄宝斎で購入したものである。