桃山もAIもクソ食らえ
坂本素行〈実存の杭を打つやきもの〉(1)
坂本素行 展
2019年9月30日(月)~10月19日(土)
Gallery Ueda
ダイヤ柄瓶 高26㎝
撮影 岡崎良一
長方市松 飾り壺 高20㎝
●以下、画像クリックで拡大表示
白黒ダイヤ柄壺〈縄文土偶のオマージュ〉
高26㎝(本文参照)
折しも「しびれるぜ、桃山。」という謳い文句で、「美濃の茶陶展」がサントリー美術館で開催されているなか、陶芸家坂本素行は、従来の“結晶構造”からの脱却を主張する。
鑑賞者はいいのだ、未来永劫、桃山にしびれていても。しかし、創作者はそうはいかない。やきものの昨今の停滞ぶりを打ち破り、AIが支配しつつあるこの世に実存の杭を打ち込むならば、六古窯の成立以降、連綿と受け継がれてきた美的基準や合理性から逃れたところで作るしかないのではないか――それが今回、坂本さんが自らに課したテーマである。以下インタビューは問わず語りで始まった。(2019.9.15 由良直也)
縄文展で感じたのは、
記号のズレ
◆(=坂本)さて、今回の仕事には経緯があってさ。そもそもから言うとね、去年、山﨑さんのところ(ギャラリー山咲木)の個展に出した例の3点。あれは自分の中では充分に咀嚼されていなかったんだけど、自分なりに「これは何?」という感じがあったんだよね。
◇そうでしたね。去年のインタビューでは、以前の作品とは別次元であり、自信作であるとも言ってましたけどね。
◆そうなんだけどさ、去年の時点では、あれが何であるか、きちんと言葉にできなかったわけでね。で、あのあと東博に縄文展を見に行ったら、「あ、そうか」と思うことがあった。何を感じたかというと、縄文の土器とか土偶とかが、現在の“記号”とズレているってことなんだよね。
◇たしかに日本文化の源流とかではなく、異次元だとは思ったけど。
◆うん、別の言い方をすれば、今の合理性と当時の合理性のズレを感じた。もちろん合理性というのは、時代によって違うし、民族によっても違うものなんだけど、縄文のあの装飾やサイズ感は、今からするとかなり非合理でしょう? それでさ、自分のやきものを振り返ってみると、はたして現代の合理性から抜け出たものなのかということだよね。
◇非合理なやきものでありたい?
◆ま、簡単に言えばね。だってさ、今のやきものは、茶碗なら寸法がいくらとか、徳利だったらこういう形がいい、というところから始まって、仕舞いにはモノのよさという美意識の部分も記号化されているでしょ? 李朝風の徳利は、こういった要素とこういった要素できていて、それがいいんだというふうに、価値基準がきっちりでき上がっちゃっている。
◇その場合、用の美なんかも坂本さんの言う記号に含まれるということですかね?
◆うん、記号の一つだと思う。用の美とか日本美とか、自然を絶対視するとかっていうのも、結局のところ現代の我々の合理性だと思うんだよ。縄文時代にも自然崇拝はあったと思うけど、おそらく今よりも自然は恵みを与えてくれるという気持ちが強かったと思うし、恐れも強かったと思う。今は、記号主義とか、マルクス主義的な人間とモノの関係とか、それからモダニズムとか、そういったものが妙な合理性で結び付いて、妙な安定を生み出しちゃっている。
◇妙にですね(笑)。
◆そう妙に。例えば明治生まれの巨匠たちが、魯山人なんかも含めて、桃山を再評価したじゃないですか。それがずっとあとを引いていて、そこにいろんな解釈を加えた形で結局のところ安定しているわけ。
◇いろんな解釈というのは、用の美のほか、わび・さびとか、数寄とかですね。
◆そういったものも含めて多種多様な要素が全部妙に結び付いてきたんだよ。それできれいな結晶構造をなしちゃったんだよね。で、作る側もその結晶の中でやろうとするから、行為はあらかじめ決まっちゃっているんだよな。だから、茶碗にしろ、徳利にしろ、いろんな人の作ったのを並べてあっても、何一つ気持ちが動かないんだよ。
外へ膨らむロクロが
美しいとは限らない
◇うーん、すばらしくよくわかる分析です(笑)。まず、やきものの入門としては「別冊太陽」などを読むことで、坂本さんの言う結晶構造の理解から始まるけども、次第にそうした世界から受ける刺激が薄れてくることは必然ですよね。
◆たしかにそういった結晶が生まれるに至った道程は、すごくいいわけ。昭和で言えば40年くらいまではよかった。巨匠やその周りにいた人たちが、“やきもの”というものを作っていた時代だね。しかし、評価基準というものができちゃって、結晶構造が完成してからは、新しいモノを生み出す力が枯渇しちゃったという感じだね。
◇作るモノ作るモノが、桃山風、宗麿風、魯山人風になってしまうし、少し前衛的だと、八木一夫風や加守田章二風になってしまう。
◆だと思うな。だから、そこから抜け出すためにはどうするか? 縄文土器の魅力は、現代の自分たちの合理性とは違うというところにあるのだから、それと同じように、今の合理性から逃れることでしか個性というものは表現できないんじゃないか、と俺は思う。
例えば、壺は粘土を内側から膨らませていく作業だから、外に向かって力強いフォルムができるんだ、と。こういう考え方も記号になっているから、そこに疑問などは起こらない。だからこれは、その逆をやったわけさ。(▶白黒ダイヤ柄壺〈縄文土偶のオマージュ〉)
◇あ、これね? なるほどー。面白い(笑)。
◆内から外に向かっていないという、今の記号とは真反対なことをやるというのは、ある種意志表明なわけじゃない? 「この人は何を考えているんだろう?」というのは作家の意志表明。で、この場合、壺でありながら中の空間を感じるよりもマッシブに見えてくるわけよ。中詰まっているんじゃねえかという(笑)。そういうところの面白さというか、可能性を今回の展覧会では追求したわけです。
◇ちなみにこれは、いったんロクロで挽き上げてから閉じているんですか?
◆いや、閉じながら挽き上げてるの(笑)。
◇閉じながら挽き上げた? 物理的に合理的ではない感じがする。
◆合理的ではないよ。どんどん張っていけばさ、あるカタマリがいちばん大きく膨らむところがあるわけだから。
◇それによって土の粒子も均一になるわけですよね?
◆うん、均一になったり、広がったりするわけよ。
◇この場合は均一になるんですか?
◆均一にはなるけども、何しろ大らかさというのがないわけよね(笑)。そういうものがあったほうが陶芸の美に適うということで、その記号には疑いの余地がないように見えるけど、俯瞰すると、それは立体の一つのあり方でしかないわけだ。
それでさ、その記号に抗いたいというのは俺の実存だと思うわけ。自分の実存をどういうふうにしたいのかということを大事にしないと、個性なんてものは構築できないんじゃないのって思うんだよね。