三上亮の極上飯茶碗
●1999年6月
わが家の壁を飾る三上作の大陶板。一対で全長105センチある。あまりの重さにしばらく床に直置きしていたが、壁紙を張り替える際に、大工さんに大釘を打ってもらった。「鯨に桜」という奇妙なモチーフがいたく気に入っている。1993年に三上さんから思いがけずプレゼントされたものだ。
陶芸界に一石投じた飯茶碗展
三上亮さんは現在39歳(著者注 もちろん1999年の本稿執筆当時)。やきものの世界では若手といっていい年齢だが、食器作りでは今や日本屈指の陶芸家だ。東京芸術大学の陶芸科出身で、小田原の近郊、神奈川県の南足柄市に窯を持つ。
やきものを見ると、すぐに「何焼きですか?」と聞く人が多いが、三上さんのような陶芸家の作品は、備前、唐津、萩といった古くからの窯業地のスタイルに当てはまるものではなく、現代陶芸の作品と呼ぶ以外にない。「何焼きですか?」と聞かれたら、「三上焼きです」と答えるしかないのである。もちろん日本の陶磁器の伝統から逸脱しているものではないが、作品のなかにはみずから構築したコンセプトが必ず存在するということだ。
数年前、その三上さんが飯茶碗だけの個展を開いたことがある。題して「百種千碗展」。東京・神田の工芸サロン「壺好」で開かれたのだが、この個展は、陶芸界に少なからず波紋を投げかけた。三上さんの前に、本気になって飯茶碗を作った陶芸家などいなかったからである。最近こそ飯茶碗を個展に出品する陶芸家が増えてきたが、そのほとんどがこの人の影響であると断言できる。
「ごはんのお茶碗は毎日手にするものなのに、陶器の世界ではなぜかおざなりにされてきたんです」と三上さんは言う。実際そのとおりだった。しかし「なぜか」という表現には三上さんの遠慮がある。理由はわかりきっていた。
抹茶茶碗との境界線
まず第一に飯茶碗は消耗品の性格が強い。それなのに抹茶茶碗と形状がよく似ているところが面白い。例えば、かつて千利休を筆頭とする茶人は、朝鮮の無名陶工が焼いた雑器の中に“わび・さび”といった好みの美を見出し、名器として珍重した。高麗のいわゆる井戸茶碗は、元来が消耗品の最たるもの、おそらくごはんなどを盛った器だった。
その曖昧さは、ある意味でやきものの醍醐味ともいえるのだが、無名陶工ではない現代の陶芸家は、「これは飯茶碗です」「これは抹茶茶碗です」という態度を明確にしなくてはいけない。別に明確にしなくてもいいのかもしれないが、茶道と縁の深い日本の陶芸界では慣習的にそうなっているので仕方がない。
で、同じような形の器を作るなら、たいていの陶芸家は抹茶茶碗に力を注ぐようになる。売れるか売れないかは別として、いかにも陶芸家の作るべき器のイメージがあり、しかも飯茶碗の10倍以上の値がつくらである。
さらにいえば、抹茶茶碗は飯茶碗よりも簡単に作ることができる器である。なぜ簡単なのかというと、抹茶茶碗は我流のポンチ絵みたいなものだからだ。形が多少ゆがんでいても、ちょっとばかり窯に失敗しても「かえって味がある」と評される場合がある。対して飯茶碗は書道でいえば楷書である。誰が見ても清潔感があり、ごはんを盛って映える飯茶碗は、けっして偶然にできるものではない。
毎日使って飽きない器とは
「僕も最初は高麗の井戸茶碗に憧れたんですよ。学生のときに授業で実際に手に取って見る機会があって……。で、あれはよく無作為の美といわれるでしょ? そうすると、まず、ひたすらロクロを回すことから始めるしかなかったんです。職人を神様として」
つまり、修行僧のようなロクロ三昧がこの飯茶碗に結びついたというわけだ。だから、曖昧な感性に負うところが大きい抹茶茶碗よりも、技術的にはよほどハイレベルな器といえる。しかもこの飯茶碗には、やはり一流の芸術家のセンスとしかいいようのない存在感がある。中には抹茶茶碗として見立てる人もいるが、もちろんそれも使う人の自由である。
「ただし僕自身は飯茶碗としてしか作っていません。で、最近は井戸茶碗のような美を追求する気持ちもなくなりました。あれはやっぱり違うと思う。そんなものがたまさかできたとしても毎日使うには飽きるでしょ? 真っ白いご飯に強い美しさは不似合いなんです。ごはんの茶碗は、あくまでもごはんの茶碗。その点、うまく手が抜けてきたところがありますね」
ところで日常の器にこだわるという感覚は昨今薄れているような気もするが、三上さんはその点については楽観的である。むしろ近頃の若い人のほうがモノ選びに妥協がなく、日常品を自分の好みで選んでいる傾向が強いからだ。そして、自分のやきものはその中の一つにすぎないと三上さん自身は思っている。“陶芸家の作品”というふうに、大げさに捉えてほしくないということである。
けれども、世の中にたった一品しかない飯茶碗を選ぶことができるのは、やはり陶芸家の器ならではの楽しみである。これでごはんを食べるのはとても豊かだし、じつのところ大変おいしい。気分半分の味かもしれないが、日本人ならそうした気分は容易に理解できるだろう。