27年ぶりの座談会◎豊福誠×三上亮×当サイト主(1)
工芸と身体感覚について無理矢理語る
豊福誠作 本瑠璃色絵壺「山帰来」 径18×高17.5㎝
{以下本頁すべて豊福作)
撮影:野田耕一
上から 「どんぐり」 径7.8×高9.3㎝
「どんぐり」 径7.5×高7.5㎝
「木の実」 径8×高6.5㎝
色絵鉢「ろう梅」 径20×高8㎝
カップ&ソーサ―「辛夷」 カップ:高8㎝ ソーサ―:径16㎝
※会期中、併設のレストラン「仏蘭西舎すいぎょく」にて、豊福さんの器を一品作った特別コースが楽しめる。
電話03-3963-7611(水曜・第1火曜定休)
銀彩鉢「鬼灯」 径19.8×高7㎝
色絵大鉢「ゆりの木」 径46.5×高15㎝
東京藝大の隣り、東京国立博物館の敷地内には、大きなゆりの木が植わっていて、5月の連休のころに大きな花を咲かせる。
豊福さん、三上さんのお二人とは、以前、陶芸の本を一緒に作った。それから27年。久しぶりに東京藝術大学の陶芸教室を訪ねた。当時、プレハブのような建物だった陶芸教室は比較的まともなビルになり、非常勤講師だった豊福さんは教授に、三上さんは准教授になった。もちろん、そんな肩書きとは別に、陶芸家としての厚みが27年分増している。
以下こちらが持参したテーマをごり押しして進めたため、まるで座談会のテイを成していないが、こうやって書き起こしてみると、建前も予定調和もない分、結構面白い。いわば「友達価格」のようなお得な内容であります。(2019.11.7 由良直也)
まずは藝大陶芸教室の今昔について
Y 今回たまたま、豊福さんが瑞玉ギャラリー、三上さんがギャラリー山咲木ということで、藝大教授・准教授コンビの個展が続くことがわかり、急遽、座談会をお願いしたわけだけど、あまり気乗りがしない感じですかね?
M(=三上) ま、ホントはね、それぞれに取材してもらったほうがよかったけどね(笑)。
Y 予算の関係ですよ(笑)。ま、それと、押し付けがましくて申し訳ないけど、最近僕が考えている「工芸と肉体」というか「工芸と身体感覚」ということでお二人にお話ししてもらえないかと思った。そうしたら豊福さんが「それ、3年生に出した課題と同じだな」って(笑)。
T(=豊福) そうそう(笑)。だけどそれ、陶芸科だけの話じゃなくて、藝大工芸科全体の課題だったんですよ。
M 身体感覚というと、器作りにすぐ結び付く気がするかもしれないけど、今回はちょっと違う切り口だったしね。
Y 工芸作品を生み出す上での身体感覚ということではなかった?
T それは学生それぞれで捉え方は自由。だけど、工芸といっても「藝大の工芸」だから。
Y どういうこと?「藝大の工芸」って?
M そこから話すと大変だから、やめましょ、この話(笑)。
Y うん、よくわからないけど、やめましょう(笑)。いずれにしても身体感覚というのは、僕自身は、極めて今日的なテーマだと思っているんですよ。技術論じゃなくて、人間としてもっと根源的なもの。工芸って究極そこでしか勝負できなくなってきているんじゃないかって思うんです。大きく見れば技術論とも言えるんですけどね。
M ま、永遠のテーマだとは思いますけど。
Y でもこれは「器」に関しての話です。「アート」ということになると、また別でしょうから。例えば、豊福さんと三上さんには昔『浅野陽やきもの塾』という本に出てもらって、食器作りを見せてもらい、いろいろ語ってもらいましたよね。今やこの本の関係者はみんな死んじゃったくらい昔の話ですけど。
T 浅野先生以外はみんな生きてるでしょ(笑)。
Y だけど、1992年発行だから27年も前ですよ。この時代の食器作りの感覚と今の若い人たちの感覚とでは、随分と違ったりしませんか?
T うーん、そんなに違っていないような気もするんだけどなあ。なんていうか、作る範囲が狭いという感じは多少しますよね。背伸びしなくなっているというのかな。ややもすると自分の身近な世界の中で完結させようとしているところがあるかもしれないな。
Y その場合、どのように学生を指導する?
M まあ、基本的には自由に作ってもらうしかないよね。僕の場合、環境を整えることに徹している。基本的に人間を信じているからさ、環境さえ整えてあげれば自然といいものができてくると思っています。何をどうすればいいかというのは教えるのは簡単だけど、そこじゃないと思うんだよね、教えるべきことは。
Y 今の学生たちの日常使う器への関心度はどんな感じ?
T そもそも課題のほとんどが器作りなんで、関心は低くないでしょ。例えば、そのコーヒーカップなんかは、こだわりの器というか、コーヒーカップをたくさん作ってる子のものなんだよね(笑)。
Y あ、これ?
M いい感じのもの作りますよ。昔よりレベル高いくらい。
Y 器に関して?
M 器でもなんでも。レベルが高いというか、全体的にすごく底上げされている。俺はそう思うな。
Y そうなんですね。それはなぜ?
M やっぱりスマホとかパソコンのおかげじゃない?
Y 情報が豊かだということ?
M うん、調べるとすぐにわかるものね、技術に関しては。ある程度やれば、すぐにあるレベルまでいっちゃうから。それだけコンテンツがあるということですね。
Y それは器を作る方法論ということでしょ?
M 方法論もそうだし、そこからの派生した情報も得られるでしょう。あそこへ行けば、その実物が見られるとか。そこが格段に違うんですよ、俺らの時代の環境と。
Y なるほどね。で、そこから先へ飛躍するには何が必要だと思っています?
T やっぱり情報だけだとテクニックが追い付いていかないから、そこから先は鍛錬しないといけないと思うんですけどね。具体的に言うとロクロの課題とか。で、出された課題をクリアしても、そこから先、いかに突っ込んでいけるかということだよね。急須にハマって、ひたすら毎日急須を作っている子もいるしね。ここは同じみんなが同じレベルで育つ場でもないし、個人差はある。だけど、それぞれが自分の個性を出そうという意識はみんな持っている感じかな。
M うん、その意味で僕は、みんながのびのびできるように整えているというわけ。豊福先生も多分、そんな感じ。締め付けない。我々の学生時代は、ある程度の締め付けがあった時代だから。
Y あ、あったんだ、締め付けが(笑)。
T なんというか、平均化されていた感はありましたよ。
M 今はスマホの情報とかで自然と平均化するから、あとは自分で一歩出るだけだよね。ただ、そっから先伸びていく力っていうのは、昔も今も変わらない。人間力みたいなものはどっちにしても必要だからね。
Y 環境を整えるというと、使ってみたい土があったり、釉薬があったりしたら、それを用意してあげるようなことですか?
M ま、僕の経験から考えて、いいやきものを作るためのいろんな意味での環境だよね。それは一人ずつ違うから。この子にはちょっとこういうことを言ったほうがいいのかなとか、言わないほうがいいのかなとか、そういう感じですよ。あと実際の環境もありますよ。窯の焚き方とかね。
ロクロの上手下手について
Y 話を戻すと、豊福さん自身は、器を作る上で身体感覚って意識してきました? 単純に言って使いやすい器というのはあるでしょう?
T ま、それは浅野先生にかなり教えられたというか、教育された部分があるんで、そのへんの使い勝手というのはあるわけですけど、最近思うのは、高齢者が多くなったから、軽く作らないとダメなんだなって、器は。好き勝手に作っていると、待ち上がらない(笑)。個展で見ていると、盛んに手に持っているおばあちゃんがいる。あれは持ちやすい器を探しているんだなって。
Y それは最近の話?(笑)
T いや、ずっと考えてやってきたよ(笑)。
Y 三上さんはずっと身体感覚は意識してきた?
M そりゃ意識してきましたよ。だけど、意識してもできない部分というものもある。ま、職人の動きなどはヒントになるし、昔の絵の動きとかも真似てみようと思ったこともありますよ。北斎の絵とかね。でも、真似るだけじゃいけない。やっぱり自分の体の動きの中で自然とできないといけないものだからね。若い頃は、ロクロとか薬掛けとか、そういう作業のときは動きというものをずっと意識していましたよ。だけど、今は意識していない。
Y もう無意識にやっているということでしょ?
M 無意識というか、意識しているとできないからね。
Y うん、それが本当の身体感覚だと思うんですけどね。
M だから、そこだけでできてくるものがいいと思っていたからね、とくにロクロとか。
Y こんな話、失礼かもしれないけど、三上さんは大病をしたでしょ? その前後で何か変わったことはありますか?
M 昔ほど首が回らなくなった(笑)。
Y 作品に影響があったかどうかってことなんだけど(笑)。
M それはあったんじゃない? だけど、病気というよりも、電動はあまり使わなくなって、蹴ロクロを使うようになったことのほうが大きいね。
Y あ、そうか。電動ロクロと蹴ロクロの決定的な違いって何?
M 決定的な違い? それは粘土の硬さだね。
Y 蹴ロクロのほうが硬い?
M いや、逆、逆(笑)。電動のほうが硬いの。
T 俺も最近は硬い粘土は嫌だなあ。挽きたくない。伸びが全然違うから。
M そう、だからロクロでいい形に挽こうと思ったら、粘土の硬さとかに興味が行くんですよ。そういう高度なことを考えるようになってくるわけ。ほかに考えることないからさ(笑)。
Y 電動ロクロで土が軟らかいと、形を作るのが難しいということ?
T いや、そんなことないですよ。
Y じゃあなんで硬くしているの?
T 硬くても回転が速いから挽けちゃうということ。硬いっていってもほどよい硬さですけどね、形が崩れにくいから、下手でもなんとなく挽けちゃう。だけど、本当のロクロの面白さはそうじゃなくて、自分の手の動かし方で自在に変わってくるということだから。
Y 逆に蹴ロクロくらいの速度だと、硬い粘土は全然挽き上がらないということですか?
M うん。だから、軟らかくするでしょ。でも、足で蹴るくらいだから止まるじゃないですか。その分、最小限の手数で作るようになるんですよ。
Y はあ、なるほどね。
M 余計な回転がないから、余計な仕事をしなくなる。それが昔のロクロのよさ。電動ロクロはいちいち止めないでしょ。俺は結構調整して使っていたけどね。やっぱり飽き足りないから調整するんだよね、回転速度を。それでも余計に回ってくれちゃうんだよね。ま、足でも結構回るんですよ。でも、そこの意識は多少違うと思うから。
Y 蹴ロクロのほうがより瞬間芸になるということですかね。ちょっと言い方が軽いけど。
Ⅿ うん。まあ、瞬間芸がいいとは限らないですけどね。うんと手数かけることもやってみないと。つまり、触りまくるロクロもやってみないとわからないことがたくさんあると思うけど。
Y 実際焼き上がった感じは、今は蹴ロクロのほうがしっくり来る?
Ⅿ いや、そんなことはない、どっちでもいい。土によって形は決まってくるから。
Y じゃあなんだろう? 蹴ロクロのほうが面白いからやっている?
Ⅿ まあ、そうかな。でも、電動でも面白い。ロクロは総じて楽しいもんなんですよ。やってみたいと思わない?
Y いや、僕は不器用だからさ(笑)。
Ⅿ 不器用でも、あれ見てたら、みんなやりたくなるんだよね。そういう魅力があるんだよ、ロクロには。挽き出すとある種の快感があるんだよね。
Y なるほどね。かつて三上さんは、ロクロの名手なんて言われたことがありましたよね。
M 名手じゃないよ(笑)。
Y 雑誌とかではよくそう書かれたじゃないですか。
Ⅿ そんなの、まったくの嘘っぱちだよね。陶芸家だったら、ロクロはみんな好きなんですよ。
Y でも、「この人はロクロがうまい」ってよく言うじゃないですか。
Ⅿ うん、よく聞くけど、あてにならないね、そんなの。
Y でも、三上さんがほかの人の作品を見て、上手下手というのはあるでしょ?
M それはあるよ。
Y その上手下手って何?
M 好みだね(笑)。俺はもう半端じゃなくやきもの見ているからね、古いやきものでも、好きだなってすごく思うのもあるし、よくできているなっていうのもあるしね、そういった中での好みだから。しかも、ロクロがうまいなあっていう中にはいろんな意味があるじゃないですか。アカデミックに見て技術的にうまいなあっていうのもあるし、何か人間味のようなものが露出していてうまいなっていうのもあるし。
Y 人間味が出ているというのは、作家的なうまさじゃないの?
M そうかな。職人的なうまさの中にも人間味が出ているものはあると思うよ。むしろ作家的にうまいのはあまり好きじゃないしな。